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<考察>東浩紀はなぜ「積極的棄権」を呼びかけたのか

 東浩紀は先日行われた衆議院選挙で「積極的棄権」を呼びかけた。

www.change.org

 この主張は主にリベラル(あるいは左翼系知識人)から多数の批判を受けた。批判内容は、「選挙を棄権するということは、今の与党に白紙委任するのと同様であり、自民党支持と変わらない」「国民としての義務を放棄している」等である。これに対して東は「棄権をしろとは言ってない」と反論し、さらに混沌を極めることとなる。

 

 この「積極的棄権」の呼びかけと、それに対するリベラル達の批判、またその批判に対する東の反論という一連の流れを見ていて、いろいろと考えることがあったので、僕なりにまとめてみたいと思う。この論では、東はなぜ「積極的棄権」を呼びかけたのか、その理由について考察する。

 

「積極的棄権」は「棄権」を意味しないという東の複雑な態度について

 東は「積極的棄権」を呼びかけながら、「棄権しろとは言っていない」と繰り返し主張した。

だがこの「積極的棄権」は必ずしも棄権を意味しないという態度はとても分かり辛く、多くの誤解を受けた。つまり、東は単に棄権を呼びかけているだけだと思われてしまったのだ。ではなぜ東は、誤解を受けるリスクを背負いながらも、このような複雑で分かり辛い態度(「積極的棄権」を呼びかけながら「棄権」を呼びかけてはいない)をとる必要があったのか。 これにはおそらく哲学者特有の思考方法が関係していると思われる。

 哲学者特有の思考方法とは、真理の探究をする際に、その探求方法を日常生活に持ち込まないということである。これはデカルトの議論が有名だ。デカルトは、『哲学原理』において、真理を探求する際の、方法的懐疑の必要性を強調した後に、次のような記述をしている。

三 しかしその間も、この疑いを実生活におよぼすべきではない、ということ

 けれども、この疑いはただ真理の観想の場面のみに限られるべきである。というのは、実生活に関する限り、われわれが疑いから脱却しえないうちに、行動する機会が去ってしまう場合がはなはだ多いゆえに、たんに真実らしいというだけのものを受け入れざるをえないことはまれでないし、二つのうち、一方が他方よりも真実らしいということが明らかでなくても、やはりどちらか一方を選ばざるをえぬことさえときにはあるからである。

ルネ・デカルト『哲学原理』

 真理を探求する際には、徹底した懐疑が必要であるが、それを直ちに日常生活に持ち込むと、真理を探求する私自身を支える日常生活が破綻する可能性がある。「理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう」*1にしなければならない。すなわち東は、今回の選挙の意義を追求するための懐疑を行うために「積極的棄権」を呼びかけたのだが、実際に「棄権」をしては、今我々が生きている現実社会上で様々な問題が生じるので、「棄権」を呼びかけることはしないという態度をとったと考えられる。「積極的棄権」は真理探究のための問題提起なのであり、実際の棄権を呼びかけるものではない。

 この発言は今のような文脈を踏まえると理解しやすいのではないだろうか。

 

なぜ「棄権」が必要なのかーベンヤミン『暴力批判論』についてー

それでは、東は「積極的棄権」を提案することによってどのような真理を追究しようとしたのだろうか。 東の問題提起については、先ほどのchange.orgを参照して欲しいのだが、注目すべきは、

change.orgの署名活動について | ゲンロン友の声

に書かれた補足説明の方だろう。

ぼくとしてはむかしから、「なにかのルールのなかで勝つこと」と「そのルール自体を設定することで勝つこと」の区別に関心を抱いてきました。多くのひとは、ルールを疑いません。そしてそのなかで勝つことを考える。でも本当に大事なのは、ルールそのものが適切かどうか、ルールの設定自体に暴力が含まれていないかを考えることです。これは哲学的に言えば、ジャック・デリダが『法の力』で論じた法措定的権力と法維持的権力の区別の問題であり、またそこで言及されたベンヤミンの言葉を使えば神話的暴力と神的暴力の区別の問題でもある。 [...]すべてのルールは、ルールがルールになった瞬間に暴力を孕む。ルールだから守れといって満足できるのは、権力者か愚か者だけです。さて、そこで今回の署名運動ですが、ぼくは、このひと月ほどのゴタゴタは、まさに、この国の「民主主義」を成り立たせているはずの選挙のルールそのもの、それ自体に暴力が含まれていることがじつにわかりやすく示された事例だと思いました。

 今回の件で東を批判している人々は、ルールに従うこと、すなわち日本に住んでいる以上は選挙というルールに従って投票するべきであり、棄権は論外であると主張したのだが、東はこのルール自体を批判したのだ。ルール自体に問題があるというのは、そのルールが権力の暴力を含んでいるということである。

 国民は、選挙で示される限られた選択肢から最適解を導き出すことが求められる。しかしながら、今回の選挙では、限られた選択肢から必ずいずれかを選ばなければならないというルール自体が権力に利用され、政治家側が国民を自分の都合の良いように用いるという自体が発生している。このようにルール自体に問題がある場合は、ルールを無視する態度、すなわち選挙に参加しない=棄権という態度が必要となってくるのだ。

このような東の態度は、引用部分で言及されているヴァルター・ベンヤミンに通じるところがあるだろう。

 ベンヤミンは、アナルコ・サンディカリズム的な視座を持ちつつ、当時のプロレタリア・ゼネストを擁護する立場で『暴力批判論』(1921)を書いた。『暴力批判論』では、法が作られる際の暴力「法措定的暴力」、法を維持するための暴力「法維持的暴力」について語られた後、「法措定的暴力」(「神話的暴力」)を乗り越えるための「神的暴力」の提案という主張がなされる。

神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪を作り、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。

ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』 野村修訳 岩波書店  1994 59 頁

 

非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定のーー支配の、といってもよいーー暴力である。これに使える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されねばならない。これらにたいして神的な暴力は、神聖な執行の印章であって、決して手段ではないが、摂理の暴力とも言えるかもしれない。

前掲書 64-65頁

 東はこの文脈で、権力の暴力「神話的暴力」に対抗するための「神的暴力」 として「積極的棄権」を提案したと考えられる。権力の暴力に対抗するためには、破壊的で衝撃的であり、ルールから逸脱していることが必要なのだ。そのための選挙不参加=棄権なのである。これは単なるシニシズム冷笑主義)ではない。いずれ超人となることを見据えたニヒリズムである。リベラルの未来を信じるが故の、一時の休息である。

 

リベラルの将来のために

 東は、最近の著書で、近年のリベラルの安易な連帯について批判していた。例えば、『ゲンロン0ー観光客の哲学』(2017)において、ネグリ=ハートのマルチチュードの概念をはじめとして、近年のリベラル思想が、神秘主義的でロマン主義的な中身のない連帯を推奨し始めていることを指摘し、批判している。「共通のイデオロギー共産主義)がなく、したがって本来は存在するはずのない連帯が、まさにその連帯の不可能性を媒介としてつくりだされることになっている」*2東はこの構造を否定神学的であるとし、これに対抗する郵便的マルチチュードなる概念を提案している。実は東のこの批判は、『存在論的、郵便的ージャックデリダについて』(1998)から一貫している考え方だ。詳しい説明は省くが、東はデリダ否定神学システムとしての論理的ー存在論脱構築を克服するための精神分析的ー郵便的脱構築を作り出したことを指摘したのである。そこでは、閉じられたシステムを超えていくデリダの思想が強調されている。

 東は、リベラルが安易に連帯して、思想性を薄めて行ったり、閉じられたシステムの中に閉ざされ、権力の暴力によって壊滅させられていくことを懸念している。今回の選挙では、それがわかりやすく示されてしまったのではないか。リベラルの将来のことを考えるならば、リベラルは一旦立ち止まる必要があるのだということだ。今回の件で東を批判したリベラルたちには、そこらへんをよく考えていただきたいと思う。

*1:ルネ・デカルト方法序説』第三部

*2:東浩紀『ゲンロン0ー観光客の哲学』株式会社ゲンロン 2017 150頁